海军少将远藤喜太郎の长男として
东京に生れる。学习院を経て、1911年に
江田岛海军兵学校(39期)を卒业し、1912年、海军
少尉に任官。1917年から翌年にかけて海军大学校乙种学生、けて炮术学校高等科に学ぶ。巡洋舰「常磐」分队长、舰「
朝日号战列舰」分队长、戦舰「
长门」副炮长などを経て、1923年、海军大学校甲种第21期を卒业した。その後、海兵分队长、呉镇守府参谋、海军大学校教官、巡洋舰「长良」副长、
德国驻在武官、「
鬼怒号轻巡洋舰」舰长、侍従武官などを経て、1937年に海军少将に升进。さらに、ドイツ勤务を経て、
横须贺镇守府参谋长、総力戦研究所长等を任する。太平洋戦争中は第1遣支舰队司令长官を経て第九舰队司令长官に就任。しかし
太平洋の制海が米军に夺われた1944年5月、第9舰队司令部はニューギニアのホーランディアで玉。戦死後、海军大将に升进した。妻、育子は陆军大将
内山小二郎の娘である。