1603年(慶長8)、
德川家康が征夷大将軍に就任して江幕府を開いた際に、伊賀守に叙任される。 1620年(
元和6)、子の重宗に京都所司代の職をった。 1624年(永元年)に死去、享年79。
德川家臣。好重次子。少时出家为僧,父亲与弟弟战死后,还俗并继承家督。蒙家康信赖担任骏府、
江户城等地奉行,后任京都的侍所代理守,负责应付朝廷和监视西国的各大名。
板倉勝重(いたくらかつしげ、天文14年(1545年)-寛永元年4月29日(1624年6月14日))は、安土桃山時代から江戸時代の大名、京都所司代である。父は板倉好重、母は本多光重の娘。子に板倉重宗、
板仓重昌。出家名は香誉宗哲、通称は四郎右衛門。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残る。
三河国额田郡小美村(現在の
爱知县冈崎市)に生まれる。幼少時に出家して土真宗の永安寺の僧となった。ところが1561年(永禄4)に父の好重が死、さらに家督をいだ弟の板倉定重も1581年(天正9)に武田軍の籠る遠江・高天神城攻めで戦死したために
德川家康の命で家督を相した。その後は主に施政面に従事し、1586年(天正14)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、1590年(天正18)に家康が東へ移封されると、関東代官、
江户城町奉行となる。1600年(慶長5)の関が原の戦い以後は
京都町奉行、京都所司代に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂の豊臣家の監視に当たった。1603年(慶長8)、川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に、伊賀守に叙任される。1615年(元和1)の
大坂之役の端となった
方广寺钟铭事件などにも関わっているとされる。
大阪の陣後に江戸幕府が
禁中并公家诸法度を施行すると、朝廷がその施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。1620年(
元和6)、子の重宗に京都所司代の職を譲った。1624年(寛永元年)に死去、享年79。